読書雑論03|異邦人/アルベール・カミュ
ジリジリと照りつける太陽に、夏の到来もすぐそこ… と思ったらフッと頭によぎった作品をご紹介します。不条理文学です。
主人公の男の名はムルソー。感情表現に乏しいが それは冷酷とは異質であり、他者とのコミュニケーションや社会生活を円滑にするための "ちょっとおおげさな" 表現を一切しない人間です。
小説の冒頭は「きょう、ママンが死んだ」から始まります。彼は葬儀でも涙を流すことはありません。ママンを深く愛していたが、それと死とは別問題と捉えていた。
それは女性関係でも仕事でも同じで、感情と行動原理を全く別物として捉えていることで、周囲とのコミュニケーションがぎくしゃくすることもあったが、それでも彼は幸福でした。
そして母の葬儀の翌日に女性と関係を持ち、友人と海水浴に行った際に 友人の揉め事に巻き込まれ、成り行き上おもいがけず相手を射殺してしまいます。
物語の後半は、投獄されたムルソーと その裁判が描かれます。
彼の感情と行動原理のかけ離れたその性格は、検察や判事によって "無感情の非人間的殺人犯" として仕立てられ、ムルソーの友人知人たちの証言も、彼を助けるには至りません。
そしてムルソーは、殺人の動機を "焼けるような太陽のせい" と述べます。
常人には理解しがたく、悔恨の念も一切ないとされたムルソーには 死刑の判決が言い渡されます。
死刑を待つムルソーは、それでも自身を幸福であると確信し、処刑の日には多くの見物人が憎悪の叫びで迎えてくれる事を望みます.. 終。
ムルソーは悪意に満ちた確信犯ではありません。しかし、彼の感情を読み解くことができない人たちは、彼を 異国から来た理解不能の "異邦人" として恐怖し忌み嫌う。
裁判の場面でも、"なぜ殺人する経緯に至ったか" よりも "母の葬儀で泣かなかった事" がよりクローズアップされます。
この話の大筋は、マジョリティーである人間らしい感情を持つ人たちによる、感情と行動原理が乖離した "異邦人" ムルソーの 排除です。
これは現代の倫理観に沿っても当然の正論ですが、
人間らしい感情の乏しいムルソー( ≒ 実存主義* )と、理解できないものを理解できるように歪曲する人たち( ≒ 本質主義* )どちらも人間の側面であることは 確かです。
この小説について、殺人、死刑、宗教、心、実存主義.. そういったものの善悪を論じるのはナンセンスです。哲学に造詣の深い読み手でない限り、それらは一般的な読書の範疇を超えたものです。(※興味がある方は カミュ=サルトル論争* などもご参考に)
ジリジリと照りつける真夏の太陽の下で「異邦人」の文庫本を開き、ムルソーのちょっと変わった言動に難癖つけつつ、哲学的命題にも少し思いを馳せながら、一気に読了する。
これが正しい "アルベール・カミュ" の読み方です。
この夏 個性的な休日を過ごしたい方は、ぜひ。
追記:セイン・カミュの大叔父です。